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クリスマス島 (オーストラリア) : ミニ英和和英辞書
クリスマス島 (オーストラリア)[くりすますとう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

クリスマス島 : [くりすますとう]
 (n) Christmas (island)
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クリスマス島 (オーストラリア) : ウィキペディア日本語版
クリスマス島 (オーストラリア)[くりすますとう]

クリスマス島 () はインド洋にあるオーストラリア連邦領のである。西オーストラリア州パースの北西2360km、インドネシアジャカルタの南500kmの南緯10度30分、東経105度40分に位置する。面積は 143km²で、その63パーセントが国立公園になっており、熱帯雨林で覆われている。人口は1,493人。1888年にイギリス領となり、1958年にオーストラリア領となった。多数のアカガニが産卵期に島を埋め尽くすことで有名。
== 歴史 ==
クリスマス島を発見した人物は、不詳である。17世紀はじめのイギリス、オランダの海図には記録があり、1615年2月3日イギリス東インド会社ジョン・ミルウォードがトマス号で島を見出したのが最初の記録と考えられている。ピーター・グース1666年に出版した地図にはモニ島として記載されている。島名の由来は、イギリス東インド会社のウィリアム・マイノースが、1643年12月25日(クリスマス)にロイヤル・メアリ号でこの島に到着したことによるが、彼は島には上陸しなかった。
1688年ウィリアム・ダンピアが、シグネット号で初めて島の西岸に上陸し、無人島であることが分かった。彼の記録によると、インドネシアからココス諸島に向かう際に東に流され、28日後に到着したとのことである。
1886年にはジャック・マクレアがフライング・フィッシュ号で来島、島の北東岸に上陸可能な入り江を発見してフライング・フィッシュ・コーブと名づけた。彼らは動植物も採取している。
島に最初に居住したのは、1888年に当時ココス諸島を支配していたジョン・クルーニーズ=ロスと、その弟であるアンドリュー・クルーニーズ=ロスらの一行である。彼らはココス諸島への木材等の供給を目的に、フライング・フィッシュ・コーヴに集落を作った。
1887年9月30日から約1週間、ペラム・アルドリッチはイジェリア号でクリスマス島を訪れた。同船に乗っていた自然科学者ジョゼフ・リスターは、多数の動植物および鉱物を採取した。自らもインドネシア周辺の調査を行った経験のある海洋学ジョン・マーレーは、リスターの採取したクリスマス島の土壌に良質のリン鉱が含まれていることを見出した。彼の働きかけに応じて、イギリス海軍は1888年6月6日に島のイギリス領への編入を宣言した。1891年、マーレーとクルーニーズ=ロスはイギリス政府から99年間のリン鉱採掘権を与えられ、1897年にクリスマス島リン鉱会社 (Christmas Island Phosphate Company) が設立された。1897年にはマーレー自身クリスマス島に渡り、調査により島の南部で新たな可採箇所を見つけている。リン鉱の輸出は1895年から始まり、1900年に大型貨物船による本格的な輸出が行われるようになり第二次世界大戦まで続いた。主な輸出相手国は日本、オーストラリア、ヨーロッパであった。当時の島はイギリス植民地政府とイギリスリン鉱委員会 (British Phosphate Commission) の共同統治となっていた。
1898年にはイギリス植民地政府の施策で、広東省などから約200名の中国人が採掘労働者として島に送り込まれたのを皮切りに、主に中国人、マレー人(ジャワアンボン出身)が採掘の労働力として島に送り込まれた。彼らは居住地を限定され、中国人はプン・サーン(Poon Saan、半山。山の中腹の意)地区、マレー人はカンポン(Kampong、村の意)地区に集められた。現在に至るまで、島の各地区は当時からの住み分けを色濃く反映している。
第二次世界大戦に入ると、島のリン鉱資源は日本の標的となった。1942年3月7日朝、島は日本軍・南雲機動部隊別働隊4隻(金剛型戦艦榛名金剛》、陽炎型駆逐艦谷風浦風》)の艦砲射撃を受け、同島守備隊は白旗を掲げた〔#戦史叢書26海軍進攻作戦511頁〕。その後、別働隊4隻は白旗を放置して島を去ったが、島内では抗戦を主張するイギリス人と、降伏を主張するリン鉱労働者との意見が分かれた。同31日、第十六戦隊(司令官原顕三郎少将)と第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)によるクリスマス島攻略作戦(軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、哨戒艇2隻、輸送船2隻、油槽船1隻、上陸部隊850名)が実施される〔#戦史叢書26海軍進攻作戦615頁〕。降伏主張者はついにイギリス人5人を殺害して、島をあけ渡した(日本軍のクリスマス島占領)。日本軍はリン鉱の搬出を目論んだが、労働者たちのサボタージュにあい、また輸送貨物船が1943年に潜水艦の攻撃で撃沈されるなどして、同12月にはあらかた島を撤退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クリスマス島 (オーストラリア)」の詳細全文を読む




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